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06 そうして夢が醒めるまで

 ——あたたかい。目を覚ますとすぐそばに寝間着のイサンの胸元が眼前に広がっていた。そうだ、あの後、胸を貸してもらってひどく泣いたのだった。それで、疲れて、最終的にイサンの心音を聞きながら眠った気がする。イサンも付き合いが良く、背中を一定のリズムで叩いてくれた。冷静になった頭で思い出せば思い出すほど、私はとんでもないことをしたのでは? という気持ちになって今更恥ずかしさがこみあげてくる。あと絶望的なほど目が腫れている気がする。

「おどろききや、名前嬢」

 イサンは敷布団に片肘をついた状態で声をかけてくる。低く落ち着いたトーンが寝起きの耳に心地いい。……イサンは寝たのだろうか。寝ていないのでは?

「う……はい、おはようございます……」

 一方私は声もガサガサだった。最悪だ。

「ごはん……」

 起きようとすると、イサンも一緒に起きるようでごそごそと布の擦れる音が隣から聞こえてきた。


 洗顔をするために鏡を見る。尋常じゃない目の腫れはともかく、首の傷が思ったより目立つことに気が付く。傷は塞がったとはいえ赤い線はごまかしようがなかった。化粧で隠すにしても場所が場所だ、目ざとい人間には事情を聞かれるだろう。ならいっそ、風邪でも引いたことにして会社自体をしばらく休んでしまった方が良いのではないだろうか。いつ帰ってしまうかもわからないイサンのことを考えると、それほど悪い思い付きでもないように思えた。

「休もう……」

 とりあえず、イサンと一緒にご飯を食べてから一報を入れることにした。


 朝のニュースで、件の指名手配犯が無事逮捕されたことが報道されていた。匿名の通報により道に倒れているところを発見されたそうだ。

「……そういえば、どうして殺さずにいてくれたんですか」

「……殺さば、そなたに煩ひかかると思へば」

 朝食を口にしつつ話を聞けば、事前に共有していた私の世界についての話からそう判断したということだった。先んじて話をしていてよかったし、イサンが頭の切れる人間で本当に良かった、と安堵した。

 イサンは驚くほど冷静だったと思う。私は、昨夜現場を去る際に視界の端で捉えた、イサンがナイフの柄の指紋を拭いている光景のことをおぼろげに思い出していた。なんというか、手慣れていた。それだけこれまで壮絶な命のやり取りをしてきたということだろうか?


 会社に一報を入れた。不安に反して、ものすごい勢いで声の心配をされた。確かに声は朝食をとった後ですらガラガラだった。昨夜泣きはらしておいてよかったかもしれない。風邪ということでスムーズに休暇を取ることができた。

 まとめて取ることのできた休暇。日中はとにかくたくさん色々なところに行こう。そう思った。水族館に動物園、博物館もいいかもしれない。ラーメンに、アイスやクレープ、ドーナツなんかを食べて……それから、最終日は遊園地にしよう。

 イサンに、そんなこれからの過ごし方をいくつか参考のホームページを見せながら提案すると、少し沈黙し考えた様子のあと小さく頷いてくれた。

「名前嬢、ゆうえんちとは何なりや?」

「遊園地は、そうですね……乗り物に乗るんです。景色とか、風とか、スピード……速さとかを感じて楽しむんですよ」

 以前にも思ったが、イサンの世界では娯楽施設の方面はさほど注力されていないのだろうか? 今日を生きるのも大変な人間がたくさんいる世界では、娯楽どころではないのかもしれない。


 ……色々あって休日最終日。電車を乗り継いで、最も近場の遊園地に到着する。平日だったが思ったより人がいて、アミューズメント施設の力を感じる。チケットを二人分購入し、入園する。ふと顔をあげたイサンの視線を追えば、見上げる先は巨大なジェットコースターだった。

 いわゆる絶叫系の乗り物は、適性のある人間とそうでない人間がいる。イサンは大丈夫だろうか? いけそうか聞いてみたところ、「やり遂げられんと思わば、やり遂げられん」と返ってきた。それは……大丈夫ということでいいんだろうか? しかしとりあえず事前の恐怖感などはなさそうなので安堵する。乗ってみないことには分からない、ということで挑戦してもらうことにした。

 しばらく待って、私たちの順番がやってくる。隣同士で案内され、イサンは私の隣で言われるまま下ろされた安全バーをしっかり握っている。アナウンスのあと、コースターの車体はゆっくりと走り出した。


「……」

 イサンは少し驚いた様子で目を見開いたままやや俯きがちに、ふらふらとした足取りでコースターを降りていった。珍しくその手は歩く頼りにするように私の肩に触れてきて、彼の少なからぬ動揺が感じられる。

「あはは……びっくりしましたか」

「……目覚む心地せり」

 最中、隣から一切声が聞こえなかったので心配していたのだが圧倒されていたらしい。背伸びをして、風圧でやや乱れた髪をそっと直してやる。

「次はやさしめなの乗りましょうね」

 メリーゴーランドかコーヒーカップか……マップを広げながら、私たちは行き先を思案した。


 ……日が落ちゆくなか、観覧車はゆっくりと頂上に向かっていく。なぜ人々は空を目指すのだろう?

 夕暮れに照らされたイサンは、席に少し足を開いた状態で座り、膝の上でゆったりと手を組んでいる。

「名前嬢」

 イサンの、いやに落ち着いた声が私を呼ぶ。

「私のはかりによらば、いまやがてのはずなり」

「……? 何がですか?」

「鏡の……いわば、再起動のとき来たらむ」

 頂上にたどり着いたなら、いつかは降りなければならない時が来ると誰もが知っているのに。


 家に帰って確認すると、姿見が白い光を放っていた。なにかお土産でも持たせてあげられたら、とぼんやり思ったが、何分急なことで何も思いつかなかった。

 鏡の前に佇むイサンはここで出会った時と同じ格好をしていた。すなわちそれは、彼が帰る時が来たということに他ならなかった。

「そなたの傍にふれしほどはただひと時なれど夢のごとし。されど、夢はうち過ぎておどろく時来にけらし」

「イサンくん……」「えっと、もうお別れなんですね」「うちに来てくれてありがとう。短い間だったけど楽しかったです」「じゃあ……その。頑張ってね。応援しています」

「……さらば、名前嬢」

 イサンは私を眩し気に目を細め見つめ頷くと、くるりと背を向けその後は振り返ることなく鏡の中に向かって歩いていった。古ぼけた鏡の木枠に手をかけて、くぐり、敷居をまたぐように消えていく。

 鏡の表面が水面のように揺れて、それからゆっくりと静寂を取り戻す。鏡の向こう側に消えた背中をただ見つめる。……これで良かったのだ。願わくば、彼の——彼らの旅路が良きものであらんことを。

 けれど。

 まだ一緒に居たかったな、という思いがちら、と胸の中で燻ぶった。

 ……そう思った瞬間、鏡の中から何か見えない強い力に魂ごと鷲掴みにされて、勢いよく引っぱられるような心地がした。抵抗をしたにもかかわらず、私の足は私自身の意志に反してたたらを踏んで、白い光を放つ鏡に向けて引き寄せられていった。


230416 都市、正直行きたくない!!!!(死の危険)イサンくんが指紋を拭いていたのはパソコンから得たこの世界の知識によるものです 都市ではそんなことする必要はなさそう(偏見)色々あった部分はまた後日別で書くかもしれません