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05 帰って無事に眠るまで

 帰り道、膨れたお腹をさすりながらすっかり暗くなった夜の街をイサンと共に歩く。人気が妙にぱったり途絶えた静まり返った道で、フードを目深に被った男とすれ違う。なんだか嫌な胸騒ぎがした。

 突然、ぐい、と腕を後ろに引かれたかと思うと、あっという間に左手首をひねり上げられ拘束された。視界の右端に光る何か——ナイフの刀身が見え、ぞっとする。刃渡りが大きい。恐らく銃刀法違反だろう。

「……金を置いていけ。そうすれば命は見逃してやる」

 私を拘束した男はイサンに向けて言い放った。そうは言っても、財布を持っているのは私だ。きっと男女の組み合わせであれば男の方が財布のひもを握っているだろう、と踏んだのだろうが、肝心のイサンは今無一文だ。当面外出をする予定がないからといって適当に済ますんじゃなかった。少しばかりでもイサンにお金を渡していなかったことを後悔した。

「あの、」

「女、余計なことは喋るな」

 そう言ってナイフを首元に当てられ、口をつぐむ羽目になる。イサンの方を見れば、驚いた表情をしながらも男の様子を伺っているようだった。

「……その人を離したまへ。降参せば今なり」

「……? あ? ちゃんと、に、日本語で話せ」

 多分、日本語だと思う。少なくとも、私には日本語に聞こえている。響きが少しばかり古めかしいが。

「にほんご……?」

 きょとんとした様子のイサンに、男は見るからに神経を逆撫でられたようだった。

「ば、馬鹿にしてるのか……!? この女もお前も、殺してやれるんだぞ……!」

 ぐ、と刃が押し付けられ首に痛みが走り、思わず眉をしかめる。心臓は早く脈を打つのに、深い呼吸が必要で、頭がくらくらした。途端、こちらを見るイサンのまなざしが鋭くなった気がして、感じたことのない冷たい気配が背中を通り過ぎる。動揺したのは男もだったようで、背後から息をのむ音が聞こえた。

「な、なんだ……やるってのか、俺はもう二人も、」

 ——急に、ちら、とイサンの視線が逸れる。私が、そして男も、それに気を取られた瞬間だった。

 何が起こったのかは分からない。ただ、結果として私の拘束は外れていて、後ろを振り返れば、先ほど見えたナイフを、イサンが男の首に対して突きつけているところだった。

「命ばかりは見逃す。疾く立ち去——」

「イサンくん、捕まえて!」

 ……逃がせばまた被害者が出ると思った。

 私の声を聞いて、イサンはすっと姿勢を低くし男に体当たりをする。どうやらみぞおちを突いたようだった。苦悶の声と共に、男が倒れ伏す。

 死んだ、と思った。え、と声を漏らした私を振り返り、イサンは事もなげに言う。

「安心せなむ。”みねうち”なり」

 慌てて近寄れば、男の下に血だまりは広がっていなかった。咄嗟に柄の方で突いたらしい。

「イサンくん、そのナイフに”みね”はないよ……」

 緊張の糸が切れてへたり込む。

「ねえ、イサンくん、この人どれくらい倒れてそう?」

「小一時間ほど」

 もしや、と思い恐る恐るフードを外して見てみれば、男はつい先日のニュースで指名手配されていた男だった。

 ……イサンのことを聞かれると面倒だった。指名手配中の凶悪犯に似た男が倒れている、とだけ通報をして、そそくさとその場を後にした。あとは到着した救急や警察がなんとかしてくれるだろう。

 高級なお店で良いお肉を食べた満足感はすっかりどこかへ行ってしまっていた。


 ……眠れない。あんなことがあっては当然だった。着替えた私は自分の部屋で一人布団にくるまっていたのだが、一向に眠れなかった。イサンはまだ起きているだろうか? 私は彼の部屋を訪ねることにした。


 コンコン、とノックをする。声は返ってこない。

 眠っているかな、と思ったその時、扉が開いた。

「名前嬢」

 イサンはまるで私が来るのが分かっていたようだった。扉を押さえ、身体をずらして私を迎え入れる。

「あの、眠れなくて」

「言はずとも分かれり」

 私を見つめるイサンはどこか寂しそうに笑っていた。


「かかる時はお茶の一つにもいださるべかりけれど、この身は客人ゆえ」

「あはは……お構いなく」

 ……沈黙が降りる。長い静寂を破ったのはイサンだった。

「……傷はいかがなるや? 痛まずや?」

「あ、そういえば……」

 寝る前に顔を洗う際に、首に赤い線が一筋走っているのが見えたが、その時にはもう血は固まっていた。

「ええと、もう塞がってるみたいで」

 平気です、と言おうとして、おもむろに、イサンの右手が私の首に伸ばされて気を取られる。その手はそのまま慈しむようにふわりと傷を覆った。

「許したまへ」

 くすぐったさが勝って、ふふ、と声が漏れる。

「許す、って、何をです」

「……傷を」

「……傷ならそのうち治りますよ——私一人だったらきっと死んじゃってたかもしれませんから」「イサンくん、守ってくれてありがとう」

 そこで、ぶわ、と音がしそうなほど突然、堰を切ったように私の目から涙があふれだした。

「え、あ、あれ、ごめんなさい、はは、止まらないや……」

 急に涙を流し始めた私を見て、イサンはしばし逡巡した様子だったが、やがておずおずと不器用に、ぎこちなく抱きしめられる。

 私は、何年振りかに人前で声をあげて泣いた。


230413 イサンくん、不器用だけど優しい男で……(幻覚)