鑑
03 眠るまで
「イサン殿、ごはん持ってきました」
声をかけて扉を開く。目に飛び込んできたのは一面の白。殺風景だった彼の部屋の床は、今やコピー用紙で埋め尽くされていた。紙にはそれぞれびっしりと何らかの数式や私には判読できない文字が並んでいる。
「……思考の半ばなれば散らかりて申し訳なし」
そう言いながらもさらさらと書きつけていく手は止まることなく、イサンの視線は紙の空白を走っていた。
「わ……すごいですね……」
紙を踏まないように慎重に回り込んでいく。持ってきたのはラップに包まれた海苔巻きおにぎりと軽食だ。
「……休憩もとってくださいね。お口に合うといいんですが」
「かたじけなし」
そう言ってしばらく書きつけた後、ふと手を止めてイサンは私を見る。
「……名前嬢」
「? どうしました、」
イサンの黒い瞳が私をじっと見上げる。彼の眼には私のきょとんとした顔が映っているはずだ。
「……ことなし。かたじけなくたまへむ」
そう言うと、本当に何でもない様子で軽食を受け取ってくれた。一体なんだったんだろう?
——部屋を立ち去るときに、足元の紙に描かれた鏡のような絵がふと目に入った。
イサンの世界が、イサンに聞いた程の文化レベルの高さであればもしかして、と思った。
「あの、パソコンって使えたりしますでしょうか」
私の自室に呼ばれ突如そう訊ねられたイサンはしばらく目の前のパソコンとキーボードを眺めていたが、
「……うむ。私もまた似たる文字を使いけり」
そう言ってキーに印字されたアルファベットを指で撫でた。この様子であればきっと使えそうだ。
「これ、私のいない時自由に使っていただいて大丈夫なので、」
「かたじけなし」
異世界について知ることが彼にとって良いことなのか果たして分からなかったが、きっとイサンは頭の良い人間だ。この世界を知ることで、私が気付くことのできない何かに気が付くこともあるかもしれない、と思った。
そうして、無事に帰ることができたら——と思い、ふと、それは幸せなのだろうか? と立ち止まる。彼らには”黄金の枝”を回収する使命があるという話だった。その旅には他の同行者もいる。きっと心配もされているだろう。それならばきっと帰らなくてはならない。そこが、日夜命が脅かされる世界だとしても——。
「名前嬢?」
「……あ、すみません、」
いくつかのソフトやアプリケーションについて軽く説明をする。イサンはすぐに飲み込んだ様子だった。
彼はきっといつか元の世界に帰らなくてはならないのだ。だとすれば、この世界にいるうちは、何不自由ない生活をしてほしい、と思った。
「ええと、ここのお風呂はこんな感じです」
「よく知れるものに覚ゆ。安穏と思ふ」
「ああ、それなら良かったです」
夕食を終え、お風呂の設備を説明しながら思う。イサンの世界ではお湯につかる習慣はあるだろうか? よく知った習慣だったならば良い。長旅の疲れも少しは癒えるだろうから。なかったとしても、せっかくなので体験してもらおうと思う。
「あ、そういえば」「今家にあるシャンプーとか女性ものなんですけど……」
「おのこものと違いやある?」
「うーん……香りとかかな……気に入らなかったらすみませんが今日は我慢していただいて……」
「問題あらず」
何気ない話をしながら、お風呂の準備を進める。浴槽などは午後のうちに洗ってしまったから、あとはもうお湯を沸かすだけだ。それから着替えを用意して——。
「上がりき」
カラカラ、と脱衣所のドアが開く音がする。タオルを頭に掛けた状態でのろのろと茹でたてのイサンが出てくる。用意したのはシンプルな寝間着だが良く似合っていた。洗濯が間に合ってよかった。……イサンの白い頬がほんのり色づいていて少しドキドキした。
「お疲れ様です。これ、良かったら」
湯上がりの水分補給に、と私が差し出したのはマグカップに淹れたコーヒー牛乳だった。
「コーヒーお好きなのかなって」「本物に比べたらずっと甘いので、お口に合えばいいんですが」
「……かたじけなくさうらふ」
のそのそと手を伸ばし受け取ると、イサンは一口飲んで驚いているようだった。目をまんまるくしてカップを見つめている。
「ふふ、甘かったですか」
「……少しばかり。されど美味なり」
そう言ってイサンは再度口をつける。気に入ってもらえたようで良かった。
私も自分のお風呂の支度を始める。気を使ってくれたのか、イサンはカップを片手に「失礼、」とリビングを後にするようだった。
「はい、イサン殿。おやすみなさい」
「イサン殿」
コンコン、と扉をノックする。髪を乾かした後、私はイサンの部屋の前に来ていた。
「入りて構はぬ」
「お邪魔します」
布団を敷くのに必要だったのだろう、部屋はお昼訪れたときより幾分か片付けられていた。イサンは相変わらず机に向かって書き物をしている。見れば、用意しておいたコピー用紙の束が半分ほどまで減っていた。そんなに使ってもらえてコピー用紙も幸せだろう。明日にはまた補充しなければならないかもしれない。
「何か用事やありし?」
「特別、これといってなんですが。えっと、お邪魔でなければお話でもと思って」
「うむ、承知せり。しばし待たなむ」
さらさら、とイサンが紙に書きつけていく音が耳に心地いい。何を書いているか判読することはできなかったが、見慣れない文字がつづられていくのを見るのは不思議で、興味深かった。
……しばらく待つと、イサンは筆を置いてこちらに向き直った。
「さるほどに、何を話さむや」
「ええと、なんでも。聞きたいことがあればお答えしますし、反対に、私からも聞きたいことがあります」
「む……されば……」
知りたいことは色々あった。イサン自身のこと。イサンから見たこの世界についてだとか、貴方は何を書いているの、だとか、貴方は何を考えているの、だとか。
けれどまずは、イサンの知りたいことについて少しでも教えられたら、と思った。
「それで、その時に……」
改めて話をしてみて分かった。イサンの語る世界は、私たちの世界に似ているところもあったし、全く違うところもあった。イサンのことも少し教えてもらえた。昔はとある翼で研究員をしていたこと。大切な友人がいたこと。もちろん、私の話もした。通っていた学校での話、友人たちの話、これまでの仕事の話……。
そんな他愛ない話を通して、世界が違えど、彼は私と同じ、一人の”人間”なのだと——当たり前のことを感じた。きっと、イサンも……。そうだといい、と思った。
——静寂の中、さらさらと文字を書きつける音がする。
は、と意識を失っていたことに気付く。
「……ねぶたからむかし」「……私は今宵は使はねば、名前嬢が使ふべし」
何の話だろう。しばらくぼうっと考えて、ようやく、自分がイサン用の布団に寝かされていることに気が付いた。
「え、あ、そんな」
立ち上がろうとして、力が入らなかった。それを見て、すこし慌てたようにイサンが身を乗り出すのが視界に入る。
「……えっと、ありがたく……そうさせてもらいます」
おとなしく身を横たえる。と同時に、先ほどのイサンの言葉に引っかかった一文があったことを思い出す。
「? あれ……使わないって……徹夜するんですか?」
「まとめおかまほしきがあり。例のことなれば憂へずべし」
「いつものことって」
彼の目の下のクマはそういうことなのだろうか。
眠れないのか、眠らないのか。気になったが、私の眠気も限界だった。
「寝るや?」
「はい……今日はたくさん、お話してくれて……ありがとうございます」
半ばうとうとしながら言葉を紡ぐ。静かなイサンの声は聞いていると眠気を誘う。退屈というわけではなかった。むしろ、話の内容自体は興味をそそる内容だった。ただ、彼の声を聞いていると不思議と安心した。
「イサン殿も……少しでも眠ってくださいね」
返事はなかったが、イサンが頷いた気がした。
「よく眠りたまへ」
……眠りに落ちる直前、一度だけ頭を撫でられた感触があったことを、翌朝目覚めた私はすっかり忘れてしまっていた。
230412 イサンくんについて私も何もわからなくて……