鑑
02 翌日
とりあえず、食料品と当面の着替えを買いに行かないといけない。とはいえ、一見しただけではサイズがわからないので(表示を見てもこちらの世界とは勝手が違うようでよく分からなかった)今回はネットショッピングではなく外のお店に買いに行くことにした。
イサンにジャケットや上着を脱いでもらって短剣を外せば、なかなか現代の街にも居そうな感じだ。サスペンダーが良く似合っている。
私も既に着替えている。共に軽く朝食を摂り外出をした。
……イサンと一緒に歩いているとなんだか普段より視線を感じる気がする。目の下のクマは気になるが、イサンは物憂げな雰囲気の美青年だ。人の目を集めるのも致し方ないのかもしれない。
イサンは歩きながらきょろきょろと辺りを興味深そうに見回している。日本人とは少し異なる雰囲気の顔立ちも相まって、この様子であればただの観光客だと思ってもらえる、と思う。
「皆幸せさうに歩めり。ここはいずこの翼の巣なりや?」
「翼……?」
きょとんとしている私の様子を見て、イサンは何かを考えるような素振りを見せる。
「……思ふに、私の来たりし世界とそなたの世界には大いなる違ひあらむ」
「そうかもしれません、買い物が終わったら少しお話しましょう」
そんな話をしながら、しばらく歩いていたところ。
……はぐれた。
歩いてきた道を慌てて戻れば、イサンは少し手前の道で立ち止まってビルの高層階に設置された巨大な電光掲示板をぼんやり見上げていた。
「イサン殿、大丈夫ですか」
「……、名前嬢」「すまぬ。かの建物が気になりて見たりき」
イサンが指をさした方を見上げれば、そこには芸術的な映像がまるでそこで本当に起こっているように投影されていた。プロジェクションマッピングだ。イサンの来た世界も聞いたところ科学技術はかなり進んでいる印象だったが、こういった方面の技術は研究されていなかったのだろうか?
「あれは建物にちょうど合うように作られた映像を投影しているんです……詳しいことは私にも良く分からないんですが」
「……」
ちらとイサンの方を見れば、未だ興味深そうに建物を見上げている。己の知らぬ異世界はさぞ好奇心が刺激されることだろう。
……照れよりはぐれてしまう不安が勝った。すみません、と声をかけて手を繋ぐ。ほんのりと冷たい白くて綺麗な手。イサンの視線は再び私をとらえたようだった。イサンの目がすこし(恐らくは驚きで)見開かれる。
「えっと、これで多分大丈夫です。気になるものがあったら今度からは遠慮なく声をかけてくださいね」
イサンは私のことをきょとんとした様子で見つめている。
「……名前嬢」
「? どうしました」
「……かたじけなし」
分かっているのかいないのか、イサンの薄めの唇は笑みを形作る。と同時に、手をぎゅ、と握り返される。
自分からしたことだが、なんだか照れくさくなって視線を逸らした。
「そ、それじゃあ、行きましょうか……」
イサンも頷いて、私たちはゆっくりと歩き出した。……はじめは自分で選んでもらっていたのだが。このイサンという男、とにかく何でも似合うのだ。何を着てもらっても様になる。あれもこれもとコーディネーター気分で、気付けば結構な量の衣類をカゴに入れてしまっていた。
「料など、つれなしや?」
少しくたびれた様子のイサンが声をかけてくる。代金のことを心配しているのだろうか。
「大丈夫です、任せてください……昨夜も言った通り、私には臨時収入があるので!」
「……驚くばかりなり」
意気込んで、大量の衣類の詰まったカゴを抱いてレジに向かう。イサンが何に驚いているのかは深く聞かないことにした。
「半ば持たむ」
「ありがとうございます」
衣類と、続いて買い込んだ食料とをイサンと半分ずつ手に持った。空いた手は自然とお互いの手に伸びていた。
「次は何を買ふや?」
「ええと、とりあえず今日の買い物はおしまいです。少し休憩しましょうか」
頷くイサン。私たちは手ごろな喫茶店に入ることにした。
……イサンから聞かされたイサンたちの世界の話は、私の想像を軽く超えるものだった。恵まれた限られた人々はあるいは私たち以上に満たされていながら、未だ多くの人々は私たち以上に貧しく、搾取され、彼らのすぐ隣には色濃い死がある。
イサンが先ほど口にしていた翼や巣といった単語についても教えてもらった。巨大な”都市”なる空間を26の区に分かち、大企業である26の”翼”がそれぞれを管轄しているらしい。”翼”に管轄された安全な26地域のことを”巣”というのだそうだ。……安全な場所があるということは、そうでない場所もあるということで。”裏路地”と呼ばれる庇護下外の地域は、安全を保障されることのない危険な地域なのだという。
「……」
顔を青くして口を閉ざしている私に向け、イサンは静かにコーヒーを啜りながら問いかけてくる。
「……ここは豊かなる世なり。皆命の危ふきはあらざらむ?」
「私の暮らしている国では、おそらく。……なかには、色々事情がある人はいるとは思いますが、」
「充分なり。……今朝のニュウスにて、人の殺されし騒動ありけむ?」
イサンの言う通り、昨夜殺人事件が起きたという話題で今朝の報道番組はもちきりだった。朝食のときに何気なくつけていたテレビをよく見ていたらしい。
「こなたには人一人殺されしにつかはるる紙面はあらざりき」「すなわち、この世にはさる事件はありがたきものといふ証明なり」
「……そうなんですね。……言われてみれば、確かに」
「……そなたは無垢なり。生まれし世によるものならむや、あるいは生まれついてのものならむや?」
突然そう言われ、動揺してしまう。
「えっ……! そ、そんな、えっと……あ、ありがとうございます……?」
まるで眩しいものでも見るかのようなその眼差し。面映ゆい気まずさに思わず視線を落とし、自分のカップの中身を見つめる。
「……なればこそ、私は——」
聞き取れないつぶやきにふいに顔を上げると、イサンも同様にカップの中身を見つめながら思い詰めたような表情をしていた。
「イサン殿?」
「……名前嬢」
「はい」
「そなたの家にて紙と筆を、」
借りたいと。イサンからの初めての申し出だった。
「は、はい! コピー用紙と……シャープペンで大丈夫かな……」
私の独り言に、イサンは頷いている。とりあえず大丈夫そうだと判断し、自分のカップの中身を飲み干す。昨日突然出会ったばかりだというのに、この青年の役に立てることが不思議と嬉しかった。
帰宅していくつかのルーティンをこなす。買ったものを適切な場所へ。衣類のタグを切り早いうちに洗濯機へ。イサンが様子を見に来たが、ゆっくりしていてほしいと伝えると一つ頷いて、私の淹れたお茶を持ってリビングに戻っていった。見慣れない場所を歩き回り疲れただろう。ここは彼にとって異世界ではあるが、少しでもゆっくりできるといい、と思った。
イサン、彼の自室にした畳敷きの客室に折り畳みの机を用意した。小ぶりではあるが、十分本来の目的を達成できるだろう。コピー用紙の束とペン類とその芯をいくつか、そして消しゴム。ゴミ箱も用意して、多分これで完璧だろう。目的は分からなかったが、しばらく暇をつぶせるくらいにはなるはずだ。
背後から扉の開く音がする。そちらを見れば、イサンが扉からひょっこりと覗いていた。
「準備できましたよ」
「かたじけなし」
ゆっくりとした足取りで部屋に入ってくると、彼は机の前にちょこんと座って物珍し気にペンを眺めていた。
「ごゆっくり。なにか質問とか、足りないものがあればまた呼んでくださいね」
扉を閉めきる瞬間、イサンがこちらを振り返った気がした。
230411 知的な男、イサン……